佐藤監督は「先入観にとらわれず、サイードの記憶や痕跡をたどり、中東のサイード的な生き方の人々を追ううち、経済的には貧しくても多様さや豊かさが見えてきた」と話している。
サイードは中東を見る西洋文化のまなざしに含まれる植民地主義を分析した評論「オリエンタリズム」で国際的に知られる。
英国領時代のパレスチナで生まれ、エジプトで少年時代を過ごし、ニューヨークのコロンビア大で教えた。2時間17分の映画は自伝『遠い場所の記憶』(みすず書房)の原題をタイトルにしながらも、その全生涯を追う内容ではない。
レバノンにあるサイードの墓、エルサレムの生家など、ゆかりの場所の現在をたどり、家族、言語学者ノーム・チョムスキー、大学の同僚、イスラエルやアラブの友人たちに人柄や思想について聞く。故郷を離れて、国家や宗教、民族という境界線上で生きた姿が浮き彫りになるとともに、サイード的な境界線上の人々にカメラは移っていく。
イスラエルの建国時にレバノンに逃れ、60年近く難民キャンプで暮らすイスラム教徒の大家族。立ち退き地域に、老親と残ったイスラム教徒の孤独。キブツの生活を築いたハンガリー出身ユダヤ人。イスラエル建国時に焼き打ちにあってシリアから移ってきたユダヤ人女性は、「ユダヤにアラブにアルメニア、イスラム教徒もキリスト教徒も兄弟のように一緒に暮らしていたのよ。」と懐かしむ。
人と生活を凝視する目は3年間現地に住み込んで新潟水俣病患者の記録映画「阿賀に生きる」を撮影した佐藤監督らしい。最後にイスラエル人指揮者バレンボイムが、サイードの核心にある「共生」を、多様な要素を総合する音楽と重ねて語り、感動的だ。
昨年、英語版をコロンビア大で上映。妻のマリアムさんは「エドワードは出て来ないのに、映画の隅々までエドワードの存在に満ちあふれている」と感想を寄せた。映画評論家の四方田犬彦さんも、「アメリカやアラブでは、このようにはカメラをまわせない。日本でしか撮れなかった映画だ」と評している。(以上、3月30日朝日新聞文化欄より引用)
米国主導のグローバル化が途方もない貧富の格差、環境・文化破壊を生み、グローバル化が進めば進むほど、逆にナショナリズムや原理主義が台頭するという反転現象が世界中でおきている。まさに、「コヤニスカッティ」(アメリカ先住民ホピ族の言葉で「平衡を失った世界」という意味なのだそう)の世界。そして、911同時テロが起こった。不寛容な社会はさらに先鋭化し、暴力の応酬が止まらない。コヤニスカッティな世界に危機を抱いた人々は、「共生」の思想を訴え続けた、エドワード・サイードの言葉を心待ちにした。しかし2003年、彼は他界してしまう。「共生」への夢はついえたのか。このまま暴力と猜疑心がこの世の中を支配し続けるのか。彼の死は人々の希望を哀しみに変えた。しかし、彼の言葉は、人々の心に生き続けている。「共生」をめざして。
東京での上映です。関東在住の方是非足を運んで、地方の私たちにも感想を報告してください。
(文責:T.N.君の日記)